精神分析研究

ミニマリストは欲望(対象a)から解放されるための修行だった

投稿日:2017年9月22日 更新日:

ミニマリストは最小限主義者

修行とは、金、権力、女、といったゲスい欲望から解放され、いま生きている事それ自体に幸せを感じ、つつましい日常に満足感を得ることであります。

この考えを元にするなら、ミニマリストを実践し追求するこは、修行をしていると言えそうです。

ブログをやっていると、「ミニマリスト」という言葉をよく聞きます。

ミニマリストとは、最小限主義者のことです。

必要最小限の物だけで暮らす、スタイルを追求すること、それがミニマリスト。

 

ミニマリストとシンプルライフの違い

ミニマリストとなんとなく似た感じがするのが、シンプルライフ。
この両者の違いは何でしょうか?

シンプルライフは、スッキリしていて、余計なものは捨てて綺麗にしておくこと。
必要最低限のものがあればよくて、ゴテゴテした装飾を嫌い、シンプルな外見、シンプルな機能をもつ物を好む。
収納はシンプルにスッキリと納めたい。
このような感じだと思われます。

ではミニマリストとなにが違うのか?
それぞれのテーマをはっきりさせると分かりやすくなります。

シンプルライフのテーマ:「スッキリ綺麗で白がいい、無印良品グッジョブ!」

ミニマリストのテーマ:「いらない」

このようにテーマ分けすると、ミニマリストに商品を勧めるとき、外見はとってもシンプルで、機能もシンプルで操作も簡単ですよ、とオススメしても、ミニマリストはこう言う「いらない」と。

何もかもがいらない、それがミニマリスト。

 

ミニマリストの目指すものとは?

ミニマリスト道を極めようとする者は、全てを捨てようとする。
自分の身の回りに物があったら、捨ててしまう。
そして捨てる瞬間に、ある種の快感を得る。
ああ!捨てた自分素敵!と。

「花の慶次」という漫画で、天下を掌中に収め、この世の全てを手に入れた、秀吉に対して、慶次が「人は日に米は三合、畳は一畳あれば十分 そんなことより一献くれまいか」と言う。

人は日に米は三合、畳は一畳あれば十分、これこそがミニマリストの目指すところなにかもしれない。
何も持たない幸せ。

 

欲望には限りがない、だから手放す事で幸せになろうとする

冒頭の修行の話に戻れば、人の欲望には限りがない、

なぜ欲望に限りがないのかは、ラカン理論でいうと、欲望の源泉は「対象a」だからです。
「対象a」とは赤ちゃん時代に持っていた、自分の一部だった物。
しかしそれはいつのまにか失われてしまい、その物自体はもう二度と手に入れることができない物。

よく言われている「対象a」の例は「乳房、糞便、声、まなざし」です、これらは、自他の区別がない赤ちゃん時代は自分と一体化している物ですが、心が発達し、自分と母親は別の人間なんだと知った時に永遠に失われてしまう物です。

かつては持っていたが、もう手に入らない物、それが「対象a」。

その「対象a」を求めようとするのが欲望です。
あれが欲しい、これも欲しい、と手に入れるが、でもそれは「対象a」とは違う。
我々は「対象a」の周辺をまわりながら、もう絶対に手に入らない物を、手に入れようとし続ける。
だから、いくら物を手に入れても、決して満足はしない。
これが欲望には限りがないということです。

その欲望から解放されたところに、幸せがあるんじゃやないか。
と考えるのが仏教的な考えであり、欲望から解放される行を、修行という。

ミニマリストは物を手に入れる代わりに、物を手放すという、修行を行ない、欲望から解放され幸せになろうとする者だと考えられます。

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